佐藤雅美『信長』、こまねく、こまぬく、こまねち?
文春文庫2月新刊『信長』佐藤雅美(まさよし)著

信長ファンを自認し、歴史上の人物でもっとも好きで尊敬する人物が信長である俺は、電車の中吊り広告でみつけて、気になっていたのだが、先週末購入。読んでいて気になって仕方がないのが「拱く」のルビ。「こまねく」となっていることである。何度も出てくる。

大辞林 第二版 (三省堂)

こまぬく 【拱く】<

(動カ五[四])

(1)両手を胸の前で重ね合わせる。腕を組む。もと、中国の敬礼の動作。
「はてなと思ひ、暫し腕―・き/怪談牡丹灯籠(円朝)」

(2)手出しせず傍観する。なにもしないで見ている。こまねく。
「手を―・いて見物している」

これは本来、「こまぬく」でなければならないはず。(2)を見ると「こまねく」でもいいみたいになっているが、「こまねく」で引くと「こまぬく」をみよとなっている。大辞泉で引く。

こまぬ・く【×拱く】
[動カ五(四)]

1 腕組みをする。

「手ヲ—・イテ立ツ」〈和英語林集成〉

2 (「腕をこまぬく」などの形で)何もしないで傍観する。「手を—・いて待つ」

こっちは「こまねく」はない。

こまぬいた場合、手を出さないのだが、こまねいたら手を出して招いているような印象を受けてしまう、俺だけかも知れないが。子、招く?小招く?「こまねく」だと、どうしても、そういう字面が浮かんできてしまう。

「こまぬく」「こまねく」なんてのをずっと考えてたら、ふと「こまねち」が浮かんできた。本来の人名ではなく、ビートたけしがギャグに使った、手でハイレグを真似るポーズが浮かんできたのだ。これも手を出さないとできないね。

ま、それはさておき、この本で新たになった知識がいくつか。桶狭間合戦、長篠合戦についてである。

桶狭間というと、「奇襲」で自軍の10倍とも云われるの戦力の今川義元軍を打ち破ったということばかりが強調されてきたように思う。たしかに奇襲だったことは間違いないのだろう。気になって、さっきWeb検索をしてみると、やはり「奇襲」ばかりが目につく。ざっと検索しただけだから、もっとじっくりやれば別の視点からのものも見つかるのかも知れないが、そんな悠長なことはしてられない。

いわゆる「奇襲」のちょっと前くらいのことは、けっこう詳しく記述・解説してあるものも見つかるが、この『信長』に書かれているような、一年がかりで周到な準備をして今川義元を「奇襲しやすい場所、すなわち桶狭間に追い込むようにした、なんてのは見あたらなかった。これまで読んだ他の小説などでも、なかったように記憶している。

たぶん、「奇襲までの周到な準備」は、佐藤雅美の思いつきではない。佐藤氏は史実を周到に検討した結果、この結論に至ったのだと思う。史実を並べて、詳細に検討を加えながら小説に仕立てている。歴史学者がどこかでそのような結論を出していた可能性もあるが、俺は佐藤氏の仕事に賞賛を送りたい。奇襲に至る道筋が実にわかりやすく描かれているからである。

前々から奇襲、奇襲っていうけど、東海の雄、今川義元ともあろうひとが、いくら急に襲われたんだとしても、簡単に勝負がつきすぎておかしいとは思ってたんだよね。僥倖もあったとは書かれているけど、今川の侵攻を一年前から知っていて(史実にあるらしい)、隘路に誘い込むように準備をしていたからこそ成功した奇襲だったと知って、合点がいきました。

もうひとつ、長篠合戦で三段構えの鉄砲連射によって武田騎馬軍団を打ち破った話。これは以前、何かで信長オリジナルではないと書いてあるのを読んだような覚えがあるが、この『信長』では、オリジナルが丹羽長秀の二段構え鉄砲連射にあると書かれていた。これはたぶん有名なことなんだろうね、俺が知らなかっただけで。

これで俺は丹羽長秀を見直してしまった。それを発展・進化させた信長をやはり偉いと思うのは変わりがないが。

それから、新たな視点を開いてくれたことではないのだが、うまい方法だと思ったのが古文の引用。は新潮社、秋山駿著の『信長』全国書店ネットワーク e-honで、その本の[要旨]欄に

識(原文のまま)田信長の天才性とは何か。桶狭間から本能寺まで、信長の傑出した行動を、東西の古典を縦横に引き、シーザー・ナポレオンと対比しつつ、詳密に読み解く。

と、あるように、「東西の古典を縦横に引」くのはいいが、長文がそのまま引用されているため、日頃、古文に慣れ親しんでいない俺には読むのがつらい面があった。もちろん、この秋山『信長』もいい本であって、好きな本のひとつではあるのだが。

佐藤『信長』の古文の引用で、たとえば武田信玄の遺言は、

遺言はさらにこうもつづく。
<典厩、穴山両人は勝頼に屋形のごとくに仕えて、執事せよ>
典厩は武田左馬頭信豊。穴山は玄蕃頭信君(梅雪)。いずれも一門衆の二人は勝頼の家老となって勝頼を助けよ。
<相構えて、四郎(勝頼)合戦、数寄に仕るべからず>
むやみと勝手に合戦をするな。
<信玄のよろず工夫、思案、遠慮を、十双倍(十倍)気遣いせよ>
これは字義どおり。
<必ず、卒爾なる働きすべからず>
決して粗忽なことをしてはならぬ。

と、短い文に区切り、現代語訳を並べている。これはとても読みやすいし、わかりやすい。

※ぱっと開いたページで適当に選んだので、あまり例としては適切でなかったかも。これなら現代語訳併記でなくても、だいたいわかるものね。

併記でないものは、「なんたら(こういう意味だよ)、かんたら(これはこういう意味ね)」と、古文(現代語訳)、古文(現代語訳)、古文(現代語訳)…と短く切って、かっこ内に訳を入れるという形にして繋げている。これも読みやすく、わかりやすいと思った。

逆にわかりにくいと感じたのが一カ所あった。文庫下巻P.167にある条、

…毛利はこのことを知り、吉川元春が謙信の重臣直江景綱に、木津川での大勝利を報じるとともに、信長分国への出馬をうながした。

この吉川元春、毛利三兄弟のひとりで、例の三本の矢のたとえ話(一本なら折れるが、三本なら折れない。兄弟三人で力を合わせなさいってヤツ)で毛利元就に教育されたひとだってことを知ってたから、何気なく通り過ぎるところだった。
元春さんは何番目だったっけ?って疑問がわいたので立ち止まった。ん?これ、吉川家が毛利家の分家だったか何かで、養子か何かに出されたひとだよな、ということは長男ではないだろう、ってなことで調べてみた。

Wikipediaには、

元春自身は大江姓毛利氏の当主 毛利元就の次男である。母方が吉川国経の娘であり、その関係から吉川興経の養子として送り込まれることとなる。
吉川氏は藤原南家の流れを汲み、鎌倉幕府御家人として駿河国に住すも数々の戦功を立て、安芸国に所領を得た。(詳細は吉川氏の項を参照)

とある。こんなに詳しくなくても、このことを知っている者にはいいが、知らない人には毛利が知ったのに、吉川が出馬要請をしたって何?と思ってしまうのではないかと思った。

なんとも唐突な感じがする。もしかすると、このページ以前に毛利家の家系のことが書かれていたのかも知れないが、いくら好きでも趣味で読んでる小説にすぎないものなど、主として電車の中で、かなり速読でさっさと片付けちまう俺の読み方では目にとまってない。

P.192になって、「…四月も半ばのことで、毛利、吉川、小早川の毛利三家に宇喜多がくわわって…」と出てくるが、順序が逆でしょう。毛利三家のことが先に来なくちゃね。

※あったのかも知れない、そんときゃごめんよ。→佐藤雅美先生

ま、こまねちの、きっかわのと、いろいろケチもつけたけど、総体としてはいい本でした。
by nawakatsunori | 2006-02-24 23:55 |
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